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高校「日本史B」の「原始・古代の日本と東アジア:日本文化の黎明(旧石器時代〜古墳時代)」分野の学び方

日本史Bの古代史の知識とはいえ、時代とともに新しい発見や、科学技術の応用で次々と更新されてゆくものですから、新聞記事や雑誌などに注意を払うことも重要です。

旧石器時代

遺跡と人類化石

1949年、アマチュアの考古学マニア、相沢忠洋によって岩宿遺跡が発見され、黒曜石の石器・握り斧などが発掘され、その後も各地で縄文人以前の人骨らしきものが発見されました。

静岡県の浜北人や沖縄の港川人などですが、後者は縄文人そのものではないか、という説もあります。

氷河期

更新世には、氷河期が10万年以上前にも、5~7万年以上前にも、最も新しいのは1~3万年以上前にもありました。そのたびに、日本人の祖先は、マンモスやナウマンゾウを追って、地続きとなっていた大陸から渡って来ました。

最後の氷河期が終わると、日本は大陸から切り離されました。

しかし、この説もWikipediaなどを見ると、最近の研究では、氷河期の最寒期の時代にも、対馬海峡と津軽海峡は存在し大陸と地続きになっていなかった、という記述が見られます。

原日本人がどこから来たか、はっきり解明されてないようです。

おさえるべきポイント:更新世と完新世

地質学上の地球の歴史のうち、7,500万年前に新生代が始まり、新生代は第三紀と200万年前に始まった第四紀に分けられ、第四紀はさらに更新世と1万年前に始まり、現代におよぶ完新世に分けられます。

縄文社会と文化

主食はクルミやドングリ

日本が大陸から切り離されると、そこに定着した人々は13,000年前~2,300年前の期間、縄文時代と呼ばれる時代を築きます。

縄文時代は、世界的にも温暖な気候の時代であったので、東日本は落葉樹、西日本は照葉樹が生い茂っており、落葉樹の方がクルミやドングリなど食糧になる実が多いこともあり、人口は東高西低でした。

三内丸山遺跡

1992年から整備された青森県青森市の三内丸山遺跡は、クリ畑に囲まれていたと推測されています。天然林を伐採しクリ畑をつくり、クリを貴重な食糧源としていました。

また、クリの木は長さ30メートルの長屋の柱に直径90センチのものが6本使われています。高さ17メートルの櫓(やぐら)もありますが、それは高さ3メートルの柱を6本つなぎ合わせたものだと考える人もいます。

しかし、実際やってみて、クリの木は、そう簡単に切れるものではない、という学者もいます。

いずれにせよ、この遺跡の発見は、縄文人は原始人とするイメージをすっかり書き換えてしまいました。

おさえるべきポイント:縄文式土器

縄文文化を代表するものに、縄文式土器があります。これは、縄文人が、主食である堅果類(クリ、ドングリ、クルミ、トチなど)を水につけてのアク抜きしたり、熱加工するために使われた、と言われています。

弥生社会の成立

大陸からの移民

今から6,000年前が、縄文時代の温暖化のピークであり、最盛期の縄文時代の人口は、30万人に達しました。しかし、気候は次第に寒冷化してゆき、4,000年前になると、7万5千人程度に減ってしまいました。

これは、寒冷化により、食糧源となっていた落葉樹林帯が失われていったためでした。人口は減り続けましたが、前2世紀頃から、大陸からの集団移民が始まり、再び人口増加に転じました。弥生時代の始まりです。

弥生時代の人口は、約60万人と推定されています。集団移民は、中国での秦・漢帝国成立時の難民であり、彼らによって、新しい形式の土器(弥生式土器)や鉄器(青銅器、鉄器)、稲作などが持ち込まれました。

1943年に発見された登呂遺跡は、戦後になって本格的に発掘調査が行われ、区画整理された水田のあとと、高床式倉庫のあとや竪穴式住居のあとなどが複数残っています。

石器、骨角器、銅器、鉄器の断片、弥生式土器なども発見されました。他にも、遺跡全体が低湿地にあったため、

  • 植物性製品:鉢、高杯(たかつき)、さじ、ざる、木鍬 等
  • 自然遺物:木立の株、稲、稗、桃、まくわ瓜 等

などが残っています。

戦争の始まり

日本において戦争が始まったのは、弥生時代と言われています。

縄文時代の出土した人骨には、武器で殺されたと見られるものは、余りありませんでした。

しかし、弥生時代になると、九州で見つかった弥生時代の人骨4000体のうち、100体は剣の先が刺さったりしたもので、他の貝塚でも、矢で射られた人骨なども見つかっています。

急激に増加した人口を支える可耕地を得るため、土地や水を得るための争いの結果と考えられます。

こういった人骨は、弥生時代の中期以降には減少します。

おさえるべきポイント:弥生式土器

約1000度の温度で焼かれたもので、縄文土器の500度と比較して火度が高く、材質的には薄手で堅いものになっています。西日本中心ですが、東国では、縄文土器の影響を残すものもあります。

小国の形成と東アジアとの関係

中国や朝鮮に貢物を納めていた

1世紀頃著された中国の史書である『漢書』地理志には、前1世紀頃の日本(倭)は、100以上の小国家が分立しており、年々貢物をもって朝鮮の平壌付近にあった楽浪郡に出かけていたことが、記載されています。

5世紀に編纂された『後漢書』東夷伝によると、紀元57年に倭の奴国の王の使者が貢物を持って後漢の都である洛陽を訪れたので、光武帝は金印を授けたとあります。

後漢書は、さらに続けて、107年に倭の一国が、160人もの生口(せいこう/奴隷)を後漢の安帝に献上した、と述べ、さらに2世紀後半には、倭国は大いに乱れて、相争ったと記述しています。

邪馬台国の存在

3世紀中に著された三国志の中の『魏志』倭人伝に3世紀半ばの倭国の邪馬台国のことが、かなり詳しく述べられています。

但し、地理的記載が不正確であるため、不弥(ふみ)国の所在が福岡県の宇美か大宰府付近であることはほぼ間違いありませんが、それから先の記述では、邪馬台国は九州の南の海中になってしまいます。

そこで、その所在については、北九州説大和説の二つが対立しています。

『魏志』倭人伝では、邪馬台国を治めていたのは、卑弥呼という名前の女王であり、

「鬼道を事とし、能く衆を惑わす。年巳に長大なるも、夫壻(ふせい)無し。」

とあります。

これには相当高齢で夫を持たなかったとありますが、当時は現代と比較して平均寿命がはるかに短かったので、それほどの年ではなかったかもしれません。

また、すぐれた巫女でもあり、乱れた倭国をしずめるのに擁立されたことや女王としての生活環境を考えると、昭和の国民的女性歌手のような存在ではなかったかと想像されます。ひとつの説です。

おさえるべきポイント:邪馬台国の所在

その所在を知る手掛かりとしては、1998年、奈良県天理市の黒塚古墳から三十三面の「三角縁神獣鏡」が出土しました。

これが魏の皇帝から卑弥呼に与えられた銅鏡100枚の一部ではないか、と推測され、大和説を勢いづかせましたけれども、確定的な証拠とはなりませんでした。

魏の実在しない年号がはいったものがあることや、三角縁神獣鏡が日本全国で500面も出土していることを考えると疑問を持つ人も多いです。

古墳文化の発展

様々な種類の古墳

3世紀から4世紀前半には、魏に代わって晋が中国を統一し、朝鮮では高句麗が勃興し、日本ではこの時期、大和朝廷が日本を統一しました。

4~6世紀の間、大和朝廷の支配が進捗する中、古墳文化が栄えました。畿内を中心にその文化は広がってゆき、円墳、方墳、前方後円墳、上円下方墳、双方中円墳など、地域、時代により色々な形のものが作られました。

前方後円墳以外のものは、中国や朝鮮でも見られます。前方後円墳は、我国独自のもので、古墳が巨大化すると、円墳の通路としての突出部を拡大して「前方」部となった、という説が有力です。

しかし、一説には、その形は前「方」ではなく外に開いた「台形」であり、これは中国の秦の始皇帝が不老不死を求めて信仰の対象としていた神仙思想の象徴である「壺」を意味している、というのがあります。

当時の日本に対する中国の影響の大きさを考えると、あり得る話です。

5世紀には、最大の古墳である仁徳、応神天皇陵がつくられており、この時期が大和朝廷の興隆期であったことが分かります。

古墳からの出土品

古墳からは豪華な遺物が出土されることも多く、たとえば、6世紀前半につくられた継体天皇につながる有力者を埋葬した鴨稲荷山古墳(滋賀県)では、次のようなものが見つかっています。

金銅製の冠、金製の耳飾りや垂下飾、水晶や琥珀製の玉類、金銅製の沓などです。

7世紀に入ってから、今まで畿内にはなかった装飾古墳として、キトラ古墳や高松塚古墳がつくられています。

後者に描かれている男女は、死後でも被葬者に仕える者であり、多くの古墳では、墳丘の上に立つ埴輪は古墳の守り役でした。

しかし、6~7世紀になると、権力者たちは、極楽浄土のための寺院や、自然神、祖先神を祀るための神社に関心を持つようになり、古墳は廃れてゆきました。

おさえるべきポイント:大和朝廷の興隆期

大和朝廷は、国内統一の余勢をかい朝鮮まで進出し、中国にも遣使を行い朝鮮七カ国支配の称号を得ようとしましたが、実際は任那(みまな)、加羅の二カ国くらいしか支配が及んでいませんでした。

朝鮮半島経営の不利は覆うべくもありませんでしたが、中国の史書「宋書」には、倭の五王として、日本の天皇の名が記載されています。

おわりに

人間の個人の記憶は、古いものから失われるのに対し、歴史の古い記憶は、時代が進むにつれ、どんどん鮮明になってゆくのは、不思議なことです。

しかし、ひとつの疑問が解けると、そこからより深い疑問が生じるのは人間個人の問題と同じです。

(image by 筆者)

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