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高校「日本史B」の「中世の日本と東アジア:中世社会の展開(室町時代)」

日本史Bにおいて、室町時代は中世のクライマックスであり、金閣寺や足利学校など現在でも活動しているものも多く、学ぶ量は厖大になってしまうので、主に統治関係に内容を絞りました。

南北朝の動乱と室町幕府の成立

前史

鎌倉幕府の将軍として頼朝の正系が絶えたことを理由に、朝廷方は幕府追討を図り、1221年に兵をあげます(承久の乱)が、幕府方に敗れ、頼朝と御家人との関係は、北条氏と御家人との関係に受け継がれました。

鎌倉幕府は動揺することなく、執権政治により結束を固めました。

しかし、元寇の後、御家人の窮乏が目立ち、それに乗じて後醍醐天皇(位1318~39)は、倒幕を企てました。1324年の六波羅探題を襲う計画は未然に発覚し(正中の変)、1331年天皇側の楠木正成らが敗北したのが元弘の変です。

楠木正成は屈せず河内の金剛山に千早城を築いて幕府軍を悩ませ、各地で討幕軍が蜂起しました。幕府が反乱鎮圧のため京都に送った足利尊氏は、幕府にそむいて六波羅をおとし、新田義貞は鎌倉に攻め込みました。

建武の中興

1333年、鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇による建武の中興が始まりましたが、2年間で新政は崩れました。

公武の協調がなされなかったこと、莫大な数の恩賞申請や本領安堵の要求に答え得なかったこと、大内裏に造営のため費用を地頭に負担させ、銅銭・紙幣を発行する無計画性などが原因です。

しかし、この時代に天皇親政は無理がありました。

南北朝動乱

中興の成立は、足利尊氏の業績が大きく、並び立つ者としては護良親王と新田義貞がありました。

尊氏の弟、足利直義は、兄の尊氏が朝敵となることを恐れ天皇との戦いには消極的だったのに対し、直義は護良親王の暗殺に成功し、さらに率先して新田義貞と箱根竹の下で戦い、兄を高揚させ義貞に勝利するなど積極的でした。

尊氏は一旦は京都に侵入したものの北畠顕家(あきいえ)の軍に追われ九州に敗走しますが、再び力を盛り返し摂津の湊川の戦いで楠木正成を敗死させ、後醍醐天皇を廃位し光明天皇(位1336~48)をたてました。

後醍醐天皇は皇居を吉野に移し、正統な天皇であることを主張し、ここに南北朝時代が始まりました。しかし、1338年に北畠顕家、新田義貞が戦死し、翌年、天皇もなくなり、南朝側に不利な形勢になってゆきました。

1392年、南朝の後亀山天皇が足利義満の呼びかけにより、北朝の小松天皇に譲位するという形で南北朝の合一が実現しました。

おさえるべきポイント:足利直義

後醍醐天皇を恐れず、兄の尊氏が躊躇している間にも積極的に戦ったのは弟の直義で、尊氏は直義のロボットに過ぎませんでした。しかし、尊氏の参戦は武士たちの士気を大いに高め、多くの戦いを勝利に導きました。

室町幕府の展開

職制

足利尊氏は、すでに1338年には征夷大将軍に任ぜられていましたが、政権が安定したのは三代将軍義満が京都の室町に新邸を営んでからなので、足利氏の幕府は普通、室町幕府と呼ばれています。

幕府は、吉野の南朝に対抗するため京都に置かれ、将軍を補佐する管領には、足利氏の一族である斯波(しば)・畠山・細川の三氏が任せられましたが、鎌倉時代の執権より権限は縮小されていました。

その下には政所・侍所・問注所が置かれましたが、やはり鎌倉時代と比べると事務機関に過ぎませんでしたが、その中では侍所は警備や刑事訴訟を扱うので重要でした。

その長官(所司)には、山名・赤松・京極・一色の四氏が交代で任ぜられたので四職といいました。

地方支配は、鎌倉幕府と同じく守護・地頭を置きましたが、守護は一人で数国の支配を兼ねる者もいました。

鎌倉には鎌倉府を置き、尊氏の子・子孫が世襲の鎌倉公方にとして、関東10ケ国を支配し、その補佐には関東管領が付けられました。

九州には九州探題、奥羽には奥州探題・羽州(うしゅう)探題、中国には中国探題が置かれましたが、ほとんど世襲でした。

財源

幕府の財源の中心は直轄領(御料所)からの年貢米でした。

守護・地頭にも賦課しましたが、勢力を強めていた彼らからは余り期待はできませんでした。

そこで、一般人から次のような税を徴収していました。

  • 関銭(関所の通行料)
  • 津銭(湊湾入港の関税にあたるもの)
  • 段銭(田畑一段ごとに課する臨時課税)
  • 棟別銭(家屋一棟ごとに課する臨時家屋税)
  • 倉役(高利貸しを営む土倉と質物の数を基準として課する税)
  • 酒屋役(酒造業者は高利貸しを営むことが多かったので、それに対する醸造壺数に課する税)

おさえるべきポイント:室町幕府の性格

朝廷に利用されることを恐れて鎌倉にとどまった源頼朝と異なり、足利義満は南朝に対抗するために京都の室町に幕府を置きました。それだけ武士の力は強まっていました。

征夷大将軍は朝廷から任命されるので天皇の臣下ですが、義満は室町に在住することで、臣下であることを実利的に利用しようと考えたと思われます。

これは、明との勘合貿易にあたり義満が明の臣であると名乗ることに躊躇しなかったのと同じことで、絶頂期の幕府の実力は名より実を取ったのです。

日本最初の外交史『善隣国宝記』を編集した瑞渓周鳳でさえ、その編著で義満の明に対する態度を非としながらも、自分は役人として勘合貿易の仕事にかかわっていました。

この現実的で実利的行動は、当時の一般的風潮だったと考えられます。

室町時代の外交

勘合貿易と倭寇

元寇以後、公式な国交は元と日本の間にはありませんでしたが、私貿易は行われており、足利尊氏も1334年に天竜寺船を元に派遣し、銅銭5000貫を獲得しています。

天竜寺船とは、後醍醐天皇の冥福を祈るために建てようとした天竜寺の造営料を得るために派遣されたものです。

ところが、日本の南北朝、中国の明王朝や朝鮮王朝建国期の動乱に乗じ、北九州で生活の不安定になった人々が、貿易が不調な時、朝鮮半島と北シナで海賊行為を繰り返しました(前期倭寇)。

しかし、三代将軍義満の時代に権力が安定すると、明と貿易するために、朝貢船の要求を呑み、「日本国王臣道義」(道義は義満の法名)と名乗り、1405年、勘合符を用いた貿易が開始されました(勘合貿易)。

義満の子、義持の時に卑屈な態度を嫌って一旦貿易は中止されますが、六代将軍義教の時、再開されました。

貿易の中断は再び倭寇を引き起こしました(後期倭寇)が、日本人は三割ほどで、中国人・ポルトガル人の方が多数でした。

朝鮮との貿易

李氏朝鮮の倭寇禁圧要求と日本の貿易要求し、通交がはじまりました。

1419年、対馬において倭寇の取り締まりに熱心だった守護、宗貞茂が亡くなると、倭寇の首領が実権を握ったので、朝鮮側は対馬に攻め込みましたが、戦いが不利になったので撤退しました(応永の外寇)。

日本と朝鮮の貿易は継続され、1443年、朝鮮と宗氏との間で嘉吉条約(癸亥(きがい)約条)が結ばれ、貿易は宗氏の歳遣船1年50隻とし通信符を用いた統制されたものになりました。

しかし、1510年、限られた貿易港である、三浦(さんぽ)・富山浦・乃而浦(ないじほ)・塩浦の日本人定住者と朝鮮の役人との間で大規模な衝突が起こり、それ以降、貿易は衰えてゆきました。

おさえるべきポイント:前期倭寇と後期倭寇

中国の清代の史書では、前期倭寇は元寇により住民を殺された対馬らの人々による復讐戦であるとして、後期倭寇のみ倭寇として記述しているものもあります。

室町時代の農村と経済

自治組織の発達

鎌倉時代の末頃から、さらに南北朝の動乱によって組織されてきたものに、(そう)とか惣村(そうむら)という農民の自治組織があります。

荘園制の下では、幾人もの領主に分割支配されることも多く、具体的な問題(入会地の利用、用水の分配など)でも不便を感ずることが多かったので、自衛上の要請も含めて、名主・百姓が団結して組織したものです。

領主・地頭の不当な要求に対抗することもありましたが、守護大名は村々をまとめて支配する便利さもあって、これを認める方向に向かい、惣は一村一郷(いっそんいちごう)だけではなく、村々を結合する場合も多くありました。

惣の指導者は、武士的性格を持った名主でした。

農業生産の向上

この時代には農業の技術的進歩が数多く見られました。惣によって水の管理が公平になされたので、次のような進歩が見られました。

揚水機として竜骨車(りゅうこつしゃ)の使用が始まり、肥料としては刈敷や草木灰のほか、人糞尿や厠肥(きゅうひ)なども使われるようになりました。

また、水稲の品種改良も進み、滲種法(しんしゅほう)が考案され収穫量は増大しました。

そして、米と麦の二毛作が下層農民や後進地域の関東地方まで広まり、商品作物の栽培が普及したこちにより、都市近郊では販売用の野菜が栽培されました。

さらには地域の特産品が生まれ、衣料原料の麻、苧(からむし)は東国の寒冷地、綿は三河地方、染料の藍は西国地方、茜・紫・紅花は東国地方、醤油原料の荏胡麻(えごま)は瀬戸内海沿岸一帯で作られました。

この時期には製紙材料の楮(こうぞ)も各地で栽培され始めました。

漁業・製塩

漁業については、専業漁師の数も増えました。海では一本釣や叉手網、曳網、刺網、地獄網などでの沿岸漁業が行われました。

製塩法については、塩田に海水をくみ上げる揚浜法から、潮の干満を利用して塩田に海水を注ぐ入浜法に改良され、伊予の弓削島(ゆげしま)、讃岐の塩飽島(しわくしま)は有名な漁法となりました。

おさえるべきポイント:滲種法

種籾(たねもみ)を水にひたして発芽を促進する方法。農民の小規模な集約農法により収穫を増大させました。

室町時代の文化

建築

京都の鹿苑寺金閣慈照寺銀閣は有名です。

金閣は昭和25年に焼失したので、昭和30年に再建されました。もとは足利義満が北山の山荘内に建てたものです。これに対し銀閣は義政が東山の山荘内に書院造を取り入れて作ったもので、時代の推移が分かります。

仏教の展開

臨済宗は足利将軍、上層武士の信仰を得て、南禅寺を五山の上とし、京都五山、鎌倉五山、京都十刹、鎌倉十刹を指定し、五山・十刹諸山の制度を整えました。応仁の乱後、五山が衰えると民衆化してゆきました。

曹洞宗は地方の武士の間で広まりましたが、厳しい出家主義でしたが、民衆化を目指す一派が現れ、全国的に展開して行きました。

時宗は遊行(ゆぎょう)と踊念仏(おどりねんぶつ)という庶民的性格を持っていましたが、時宗僧は茶道、生道、連歌などでも活躍しました。しかし、戦国大名の保護下に入ると庄民から見放されました。

浄土真宗(一向宗)は、蓮如と27人の子供の布教活動により、惣の形成の進んだ北陸、東海、近畿の各地に及びました。その門徒勢力の拡大は加賀の一向一揆を起こすことにもなりました。

日蓮宗は、本願寺や延暦寺の勢力を打倒しようとしましたが、延暦寺の逆襲を受け壊滅しました(1536年 天文法華の乱)。

連歌の流行

14世紀半ばに、摂政二条良基菟玖波集(つくばしゅう)を撰して勅撰に準ぜられ、連歌の地位を確立しました。

山崎宗鑑(1465~1553)は新撰犬筑波集を撰して、俳諧連歌の祖とされています。

連歌は爆発的に流行し、太田道潅とその領地に侵入した農民が連歌で応酬した話、離婚を連歌でとりやめた話、連歌に感心して借金の取り立てを帳消しにした話などがあります。

この現象は、身分制度や刑罰が厳しい時代にもかかわらず、今風にいえばディベート(対話)が成立したことを意味するのではないでしょうか。

食文化

この時代は水稲耕作が発達し、主食としてそれまでの強飯(こわいい、白米を蒸したもの)に代わって姫飯(ひめいい、白米を炊飯したもの)のほうが広まってゆきました。

副食として野菜に加えて、麺類、豆腐、納豆、心太(ところてん)、こんにゃく、蒲鉾(かまぼこ)などの加工品も普及し、味噌、醤油も使われるようになりました。

おさえるべきポイント:日本における連歌の位置づけ

連歌というと、現代日本人にとっては芸能・趣味の分野と思われるかもしれませんが、当時においては、散文に近い役割を持っていたようにも感じられます。

時代は下りますが、明智光秀は本能寺に信長を討つ前に、出陣連歌を9人で百韻を読んで奉納しており、戦争前の宣言文のようなものと位置づけられていました。

戦国大名

権力抗争の末に

六代将軍足利義教(よしあつ)は専制政治を強行し、将軍職を望んでいた足利持氏の反乱を鎮圧しこれを滅ぼしました(1439年 永享の乱)。

しかし、義教は播磨・備前・美作(みまさか)の守護を兼ねていた赤松満佑により謀殺されました(1441年 嘉吉の乱)。幕府の力の衰えが、この頃からはっきりしてきました。

八代将軍義政の時、将軍家の跡継ぎ問題が生じ、後見役を託された山名、細川の二大勢力の抗争が1467年、応仁の乱として爆発し、1477年まで続きました。

応仁の乱後、幕府の力が決定的に衰退したことにより、荘園を侵略してつくりだした守護領を持つ守護大名に代わって戦国大名が台頭し、荘園体制を完全に否定し分国(ぶんこく)をつくりました。

そして、村々の武士を土地から切り離して家臣団に組み入れました。農民に対しては惣の自治をある程度認め、惣を農民間の相互監視、連帯責任の組織として利用しました。

おさえるべきポイント:下剋上

戦国大名には今川・武田・島津氏のように守護大名から成長したものもありますが、上杉・朝倉・織田・徳川・毛利氏などは、土豪・守護代・家臣などが主君を倒して戦国大名になったものです。

また、足軽から出世した豊臣氏のような例もありました。

おわりに

室町時代に流行した連歌は、「筑波(つくば)の道」とも言われるので、筑波山のガマを写真に入れて見ました。実際には、ガマの油売りが現れるのは江戸時代中期以降です。

以上で中世の日本と東アジア:中世社会の展開(室町時代)の説明を終わります。

(image by 筆者)

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