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高校「日本史B」の「近世の日本と世界:産業経済の発展と幕藩体制の変容(江戸時代中期〜後期)」の学び方

日本史Bの中で江戸時代全般が主題ですが、この時代は鎖国の影響もあってか人口は江戸時代中期から停滞し、2500万から3000万人の間を上下していました。停滞の時代と言われる所以です。

しかし、芸術・文化・農業技術などの面では、現在でも継続し使われているようなすぐれたものも多いです。

江戸幕府の外交と鎖国

学ぶ内容

秀吉の時代からバテレン追放令がありましたが、家康の時代になって、キリスト教の布教を目的としないイギリス、オランダとの貿易を幕府は望み、日本人の南方進出も盛んであり、御朱印船貿易も行われました。

しかし、1612年家康は天領にキリスト教に対し禁教令を出し、翌年には全国に及ぼしました。

すでに1604年に糸割符制度で中国産生糸の輸入を統制したので、ポルトガルの商人は大打撃を受けており、1633年から1639年まで鎖国令は5回出されていますが3回目には日本船の海外渡航が全面禁止となり、5回目にはポルトガル船の来航が禁止となりました。

おさえるべきポイント:イスパニア、ポルトガルの排除

1588年にスペインの無敵艦隊は、海賊ドレークも指揮官の一人であったイギリス海軍に敗れ、スペイン、ポルトガルは退潮に向かいます。

オランダ、イギリスは日本との貿易で優位な地位を得るため、家康にスペイン、ポルトガルが領土的野心を持つと吹き込みます。

1636年に日本生まれのポルトガル人の子孫は国外追放されました。

オランダ、イギリスでは新教的考え方が優勢でローマ法皇の支配を受けず、カトリックの布教を目的としなかったのに対し、イスパニア、ポルトガルでは、キリスト教の下に東南アジアでも混血を奨励した地域もあります。

日本の鎖国は、人種の問題も絡んでいるようです。1636年の島原の乱では、幕府はオランダの援護射撃を求めたりしました。

文治政治と正徳の治

慶安・承応の変

3代将軍家光(在職 1623~51年)の時代には幕藩体制が整いましたが、莫大な数の牢人も発生していました。

1651年には牢人由井正雪と丸橋忠弥は江戸と駿府で一斉蜂起しようとしましたが、事前に発覚し正雪は自殺し、忠弥は捕えられました(慶安の変)。

1652年には牢人 戸次庄左衛門が老中を襲撃しようとした事件が起こっています(承応の変)。

慶安の変直後、幕府は、これまでの武断主義から文治主義へ政策の転換を、四代将軍家綱(在職 1651~80)の下で、それを補佐する保科正之を中心に行いました。その内容は、次のようなものです。

  • 牢人の取り締まりをゆるめ救済する。
  • 大名・旗本の末期養子の禁をゆるめ大名改易の政策をあらためる。
  • 大名から人質をとる制度を廃する。
  • 殉死を禁ずる、等です。

徳川綱吉の政治

保科正之の死後、後継の酒井忠清の賄賂政治により一時綱紀は乱れましたが、家綱の死後、館林藩主であった徳川綱吉(1680~1709)は将軍親政を行い、文治政治を推し進めました。

綱吉が館林藩主の時から近臣であった柳沢吉保は、官僚的技能もあり、殖産興業につとめ、灌漑用の堤を各地に開いたりしました。

しかし、1687年の生類憐みの令によって文治政治は理性を失い、幕府の奢侈的出費や大寺院の建立などにより、財政も悪化しました。

正徳の治

綱吉の死後、6代将軍家宣(1709~12)、7代将軍家継(1713~16)に7年間仕えたのは、儒学者新井白石です。白石は生類憐みの令を廃止し、法令の違反者を中心とする8千8百余名の大赦を行い、世人に感謝されました。

また、綱吉時代の勘定奉行であった荻原重秀を追放しました。

重秀は貨幣の改悪により財政の急場をしのいできましたが、利益を得たのは重秀をとりまく金・銀座の御用商人だけでした。物価は騰貴し、相次ぐ天災と重なったことで社会不安が増大しました。

白石は新しい政策として1714年、良質の正徳金銀を鋳造させました。しかし、銀相場ははげしく変動しました。商品流通の展開が流通量の縮小をゆるさなかったからです。

白石は1710年皇室については閑院宮家の創設を決めたり、朝鮮使の待遇を簡素化するなど、制度、儀礼を整備しました。

おさえるべきポイント:由井正雪

新井白石は、正雪の門人であった人から話を聞き、「万人にすぐれ候ばけもの」と批評しています。政治は正雪の死後、正雪の意に沿った形で動いています。

また、慶安の変は、明治時代になってから、「慶安太平記」として歌舞伎の演目になっています。

しかし、江戸幕府は封建体制を確立するために、慶安の変を非常に誇張しているという説もあります。

山本周五郎の小説「正雪記」でも正雪は特異な人物として描かれてはいません。横山光輝の漫画、幕府の隠密「伊賀の影丸」では、敵役として正雪は登場しています。

寛永文化と元禄文化

寛永文化

桃山時代から寛永(1624~43)までは、幕藩権力に寄生する貴族、大名、僧侶、御用学者および門閥商人を集めた京都を中心とする文化がありました。

茶の湯、能楽、和歌、連歌を楽しみ古典を刊行するといったサロン的雰囲気でした。

この時代の著名人には、儒学の林羅山、禅の沢庵、はじめ多くの人がいます。

絵画では狩野派で「唐獅子図」を描いた狩野永徳とその弟子で「龍虎図屏風」を描いた山楽がいます。他に「利休居士像」の長谷川等伯、また大和絵の新しい境地を開いた俵屋宗達などが有名です。

茶碗「不二山」で知られる本阿弥光悦は、陶芸でも活躍しました。

建築では、桂離宮、日光東照宮などがあります。

おさえるべきポイント:沢庵と俵屋宗達

沢庵は高僧でありながら、ビタミン豊富な発酵食品のたくわん漬けを考案し、現代に伝えられています。俵屋宗達は「風神雷神図屏風」という作品を残しました。

江戸時代の巨匠の作品一般に言えることですが、誰でもどこかで目にしているものなので、作品の方を先に確認してから人物名、作品名を覚えるのも勉強のひとつの方法だと感じます。

元禄文化

1670年(寛文10年)から1692年(元禄5年)の間に、木版印刷術の普及や藩校、寺子屋などの普及により、書籍の出版は2倍強に達しました。

井原西鶴(1642~93)は、浮世草子を創始し「好色一代男」などを著し、近松門左衛門の作品には「曾根崎心中」、「平家女護島」などがあります。俳諧では松尾芭蕉は、「奥の細道」等を残しました。

浮世絵が菱川師宣(ひしかわもろのぶ)によって創始され、大和絵では尾形光琳は新鮮な色彩と構図をもたらし、琳派という一派もつくりました。

数学では、関孝和は円理という微積分に類似した方法で円の面積や円周率等を大変正確に求め、行列式も研究しました。

おさえるべきポイント:曾根崎心中

近松門左衛門は、日本のシェークスピアにたとえられることもあり、曾根崎心中は「ロミオとジュリエット」に比較されています。

日本の解説書では難しいことを書く人もいますが、彼らは西部劇を書こうとしていたのだという人もいます。

享保の改革・天保の改革

享保の改革

1716年、徳川家継が世を去ると、紀伊藩主徳川吉宗(在職 1716~45)が将軍職に就き幕府財政の窮乏化を救うため、将軍独裁政治を行いました(享保の改革)。

それは、全国的な凶作による減収や大井川その他の大改修工事の出費が重なったためです。吉宗は次のようなことを実行しました。

  • 上げ米(あげまい)の制:諸大名から一万石につき百石の米を献上させ、その代りに江戸参勤の期間を半年だけ短縮する制度。

  • 足高(たしだか)の制:旗本などが幕府の役職に就いた場合、その在任中だけ役職に応じた禄高を与え、やめれば元の禄高に戻す制度。これにより経費の削減と人材登用を図りました。

  • 定免法(じょうめんほう):過去5年間、10年間または20年間の収穫高の平均から年貢率を決めるもので、豊凶に関わらず一定の年貢を納める方法。

これらの改革により、幕府の財政は赤字から黒字に転じました。他にも幕府は良貨政策をとったり、商工業者に株仲間をつくらせ、統制を強化しようとしました。

しかし、1732年の近畿以西の享保の大飢饉は、餓死者1万2千名を出し、悪貨政策により財政を救おうとし、一時は石高、貢租額とも江戸時代最高になりましたが、間もなく元のように低下しました。

田沼時代

吉宗引退後、9代将軍家重(在職 1745~60)、10代将軍家治(在職 1760~86)の側近として地位を固めたのが田沼意次です。

意次は吉宗の政策を引き継ぎ殖産政策として、新田開発を大阪商人の資本を利用して、印旛沼・手賀沼の干拓を計画し、工事は半ば終わりましたが、1786年の洪水と田沼の失脚により、計画は全く失敗しました。

蝦夷地開発と日露通商も失脚により実現しませんでした。田沼時代では、地震、災害が連年のように起こり、百姓一揆や打ち毀しが次々に続きました。

寛政の改革

11代将軍家斉(在職 1787~37)が位に就くと、奥州白河藩主松平定信が幕府の刷新を図ることになりました。

田沼時代の商業資本との癒着を嫌った定信は、退職以後のことですが、上納銀の鋳造利益をすべて幕府に没収することで幕府の直営としたので、財政政策における官僚支配が強まりました。

飢饉に備えて、諸藩に囲米(かこいまい)を命じ、都市や農村で社倉(住民が分相応に穀物を出し合う)や義倉(富裕者の義捐、課徴による)、江戸の七分積金(町人用の節約分70%を米や金で貯えさせる)を行わせました。

定信の改革は7年で終わり、定信の辞職後、家斉が親政することになりました。

天保の改革

家斉は将軍職を12代家慶(在職 1837~53)に譲った後も、大御所と称し幕府の実権を握りました。老中水野忠成(ただまさ)は、積極的なことは何もせず、ついに大阪で1837年大塩平八郎の乱がおこりました。

1841年家斉が亡くなると、家慶(いえよし)信任のもとに、水野忠邦の改革が始まりました。

忠邦は財政の破綻を消費生活にあると見て、風俗の取り締まりを強化しました。しかし、それだけではなく、株仲間の解散を行い、印旛沼の開拓を試み、利根川の治水にいどみました。

このことについて、現代の学者は、「天保の改革というものを簡単に、寛政の改革とおなじようなものと考えてはならない。」と述べています。

おさえるべきポイント:江戸時代終期の治水工事

現在、各県に存在する土地改良区は、江戸時代の用水路の工事を引き継いだものが相当ある、と想像されます。

たとえば、群馬県の岡登堰土地改良区の定款を読んで見ると、江戸時代の工事の様子が事細かに記載されています。

また、二宮尊徳(1787~1856)は各地で仕法を実行しましたが、その土木技術は現在にもしっかり受け継がれています。

四万十川は、最後の清流と言われていますけれども、江戸時代に水害防備林がつくられています。

化政文化

学ぶ内容

1804年~1829年の文化・文政時代を中心とする町人文化を化政文化と呼んでいます。

作家では、山東京伝、十返舎一九(東海道中膝栗毛)、上田秋成(雨月物語)、滝沢馬琴(南総里見八犬伝)は特に有名です。

俳句では、小林一茶、狂歌では太田蜀山人が知られています。また、絵画では、葛飾北斎、歌川広重、写生画では円山応挙、司馬江漢は銅版画を創始しました。

おさえるべきポイント:歌川広重と司馬江漢「東海道五十三次」

テレビでも放映され今では広く知られるようになった「東海道五十三次」は有名です。

歌川広重は司馬江漢の写実的な「東海道五十三次」を多くの人々親しんでもらえるように尽力したそうです。

江漢は、地球儀や補聴器、老眼鏡なども作り、松平定信には自作の地球儀を贈りましたが、付き返されたエピソードもあったようです。

おわりに

日本の浮世絵が、ジャポニズムとしてヨーロッパ美術に大きな影響を与えたことは、余りにも有名です。ぜひ、ご参考にしてください。

(image by 著者)

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