ペリーの来航から幕末までの流れを簡単にポイントを押さえてご紹介します!教科書の補足としてみてください。
ペリー来航から日米和親条約締結まで
ペリーの来航
ペリーは1853年4月に琉球国(現在の沖縄)に黒船でやってきました。当時、日本は鎖国していましたので琉球⇒長崎⇒江戸と対応をたらいまわしにされた言う説があります。
そして、同年6月に黒船4隻で相模国(現在の神奈川県)の浦賀沖に現れました。ペリーは当時のアメリカ大統領フィルモアの国書を幕府に手渡し強い態度で開国するよう求めました。そして幕府は、1年の猶予期間をもらい開国するか否かの判断を行いました。
幕府の検討
老中(国政を統括する役職名)阿部正弘は、今までは朝廷へ報告を行っていなかったのだが、今回の件はかなり重要だと見て朝廷へ報告を行いました。
その結果、朝廷の権限力を高め諸大名の発言力を上げるという逆効果になってしまいなにも対策が立ちませんでした。
ペリー再来航!日米和親条約締結へ
1854年1月にペリーは再来日しました。目的は、もちろん開国と日米和親条約の締結です。その時は黒船を7隻ひきつれてやってきたとのことです。そして幕府は威力に負け3月に日米和親条約を締結しました。下記の3つです。
一方的な要求ですが当時の幕府は鎖国していたために、情報を知らず、戦争で勝てるわけがなかったので諦めて調印しました。
日米和親条約から大政奉還までの道のり
暗記必須です!ポイントですので覚えてください!
- 1858年 日米修好通商条約締結
- 1860年 桜田門外の変⇒井伊直弼暗殺
- 1862年 坂下門外の変⇒安藤信生負傷
- 1863年 薩英戦争(鹿児島vsイギリス)
- 1866年 薩長同盟成立⇒坂本竜馬が仲介を行う
- 1867年 大政奉還へ
江戸幕府(徳川幕府)、大政奉還へ
大政奉還へ
徳川幕府15代将軍である徳川慶喜はフランスから援助してもらい幕府を立て直そうと頑張ったが、薩長両藩が同盟により倒幕へ動き始めました。
しかし、土佐藩はあくまでも中立を保ち藩士である後藤象二郎と坂本竜馬が山内容動を介し大政奉還を進めました。そして、慶喜はそれを受け入れ10月14日朝廷へ政権を返しました。
そして12月19日に王政復古の大号令を発し、260年以上続いた徳川幕府は幕を閉じました。
この範囲の注意点
この範囲では、日米和親条約から大政奉還が行われるまでのことは暗記必須です!また、太字部分も暗記必須です!
入試に出やすい部分しか掲載してませんのでできれば全部覚えていきたいのですが難しいので太字部分だけでも憶えてください!
おわりに
こんな簡単にまとめてしまいましたが皆様のお役にたてれば光栄です。是非、暗記してみてください!
(image by amanaimages)