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高校「世界史B」の「諸地域世界の形成:南アジア・東南アジア世界の形成」の学ぶべきポイント

インド及び東南アジア諸国の経済成長が著しい現在、世界史Bにおいてこれらの国々を重点に学ぶことは、受験にも役立つと考えます。

インド文明・古代インド統一国家

インダス文明

紀元前25000年頃から前1600頃まで、インダス河流域に金石併用の都市文明が栄えていました。

しかし、この時代、モヘンジョ・ダロとハラッパのレンガを使った立派な遺跡があるにもかかわらず、現在、文字の解読が成されていないため、その政治史を知ることは、全く不可能となっています。

モヘンジョ・ダの遺跡は、建物の外部には、焼きレンガが使用されており、メソポタミアの一般民家が粘土や干乾しレンガを使用したみすぼらしいものであったのと大きな違いを示しています。

また、これにより、当時のインドの気候が、現在よりも湿潤だったことが分かります。干乾しレンガでは、大量の雨に長い年月耐えることは難しいので、風化されない建物の内部や基礎部だけに、干乾しレンガが使用されています。

住居には、井戸、浴室があり、都市計画が整然と行われ給水設備、排水設備が完備し、建材として外部から運んできた石が、かなり大量に使われています。

このような他文明には見られない、すぐれた面もあるにもかかわらず、インダス文明は、メソポタミア、その東部に隣接するエラム文明の支脈と考えられています。

都市計画から、強大な権力があったことは分かりますが、大きな神殿がないため、神官は大きな権力を持たなかった、と言われます。

しかし、使われた象形文字が、そうとう高度に標準化されているため、現在のところ解読不能で、本当は推定すら不可能です。

アーリア人の侵入

このインダス文明は、前1600年頃、西アジアから侵入してきたアーリア人によって滅ぼされたと、最近まで信じられていました。

しかし、今では、インダス河の流れの位置が変化し、交通に支障がでたためだ、という説が有力です。

アーリア人がパンジャーブ地方に侵入した後のことは、彼らの残した最古の文献「リグ・ヴェーダ」により推定するしかありません。

アーリア人は、当初は、移住以前と同じ牧畜を中心とした生活を営み、後世のインド的な賭博、飲酒、肉食などに対する禁忌はありませんでした。

アーリア人は居住域を拡大し続け、あるものは東のガンジス河上流域に達し、あるものは南に向かいました。

前10世紀中頃から北部インド中原に都市国家が発生し、この時代に種姓制度(カースト制度)が確立し、前7世紀末には、カーシ、ウ”ィデーハ、コーサラマガダなどの領域国家が成立しました。

ペルシア帝国とアレクサンドロスの侵入

アケメネス朝ペルシアにより、前518年、西北インドが併合され、その貢税額はアジア諸国の合計の三分の一を占めました。

アケメネス朝を滅亡させたアレクサンドロス大王は、前326年、インダス河をわたり、パンジャーブ地方に入りました。そこで、アピサーラ王国の軍を破り、他の2王国ともにマケドニアの間接統治としました。

西方には、マケドニア人の太守を置きました。アレクサンドロスの死後、ギリシア人の勢力は全く失われましたが、交易は継続し、前305年頃にインダス河をわたったセレウコス朝とも和平が結ばれました。

統一国家の成立

マガダの軍隊司令官であったマウリア家のチャンドラグプタは、前321年頃、ヒマラヤ山地の王を盟主にした同盟軍の総帥となり、マガダ王国に侵入し、王を殺し位を奪いました。

セレウコス朝と和議を結び、西北インドからギリシア軍事勢力を一掃し、軍小国家を制圧して、初の統一国家を築きました。

三代目のアショーカは、帝国の広大な領土を維持するために、仏教を国教として異民族支配に利用し、仏教の教えを刻んだ碑文が各地に残っています。

アショーカは、土木工事にも熱心でした。巨大な石柱(長さ12~15m、直径80cm)を作り、詔勅を刻ませました。中央インドの各地に残っています。また、灌漑溝もギリシア人の太守を使って貯水池からひきました。

アショーカは、行政機構も整えましたが、彼が死ぬとその支配権は衰え、マウリア家最後の王は、前185年頃シュンガ朝の創始者により殺害されました。

おさえるべきポイント

カースト制度(種姓制度)

インドに侵入したアーリア人は、白人であったので、土着民と皮膚の色を区別することと、最高位のバラモン(司祭者)階級の血統を守るために始まったのが,、カースト制度の起源と言われています。

前10世紀頃には、バラモン(司祭者階級)、クシャトリア(戦士階級)、バイシア(庶民)、シュードラ(奴隷)のカースト制度が定まりました。

その後、土着民とアーリア人との雑婚が推し進められた結果、種々のカーストが生まれてゆきました。バラモン教はヒンズー教へと進展し、インドでは仏教もヒンズー教のもとに発展的解消を遂げました。

カースト制度は、職業を確保する上で、有利な制度と言えます。

東南アジアの歴史

紀元前2500~1500年までの間に、インドネシア人は、中国南部から、インドシナ半島部まで広がっていきましたが、モンゴロイド系人種の進出により、混血しながら、今日のマライ、東南アジアの島々に南下しました。

東南アジアで、最も中国の影響を受けたベトナムでは、前2000年頃から稲作が始まり、稲作は東南アジア各国の共通の生活基盤となって行きました。

紀元前6世紀頃にはインドの商人たちは、黄金と錫を求めて下ミャンマーとマライ半島に航海を始めていました。前3世紀頃には、アショーカが仏教布教団を下ミャンマーに派遣しています。

紀元1~3世紀には東南アジアでは、インド商人に活動が活発になり、同時に仏教やバラモン教も伝播しました。

インドの文化が東南アジア全体に広まったのに対し、中国の文化は、特に古代においては、北部ベトナムに影響を与えたに過ぎないと言われることもあります。しかし、その地に与えた影響は大きなものでした。

北部ベトナム

ベトナムでは、中国に征服される前から青銅器文化があることが、ドンソン遺跡から分かっています。中国の始皇帝が前219年、南征によりベトナム北部に象郡などを置きました。

秦が滅んだ後、広東を都とする南越という国ができ、ベトナム北部も領有しましたが、漢の武帝は前111年これを滅ぼし、その後も中国の支配下の元で、平和と反乱を繰り返しました。

唐の太宗(在位625~642)は、安南都護府を宋平(ハノイ)に設けて治めました。ベトナムの独立は、唐が滅んで五代十国、南北朝時代の不安定な時代に成され、特に李王朝は、1010年から九代、215年も続きました、

中部ベトナム

この地方には、インドシナ半島で最も古い3世紀頃の碑銘があり、サンスクリット語で王家の祖が記されており、ここにインド人がもっと古い時代から移住してきたことが分かります。

後漢の書によると、192年、林邑(りんゆう)という国が建てられた、とあります。チャンパ(占城)王国は、その後裔で、北からのベトナム人の侵入により、17世紀末に滅ぼされました。

チャンパでは、階級的差別は、それほど厳格ではないため、カースト制度は育たず、宗教の面でインド化がゆきわたりました。ヒンズー教の神々や仏教への信仰です。

カンボジア

1世紀から6世紀中頃まで、扶南(ふなん)というクメール人の国家がありました。インドから渡ってきたバラモン僧により建国されたと言われています。

6世紀中頃に、真臘(しんろう)が扶南から独立し、7世紀後半には統一王国となりますが、7世紀末に二つに分裂し、9世紀初頭ジャワから来たジャヤヴァルマン二世(在位802~850)が再統一しました。

ここに、クメール王国アンコールワット時代が始まり、タイのアユタヤ朝に首都を陥とされる(1431年)まで、この時代は続きます。12世紀前半に建造されたアンコールワットの遺跡は有名です。

インドネシア

752年、中部ジャワでシャイレンドラ王朝が成立し、832年頃まで続き、850年頃、スマトラのシュリーヴィジャヤ朝と合邦し、海上交易国家としてインドや中国との通商で14世紀の滅亡まで繁栄しました。

8世紀後半のポロプドゥールの遺跡は、アンコールワットと並んで世界的に有名です。

おさえるべきポイント

海上交易国家

中国では、漢代以来、陸路での大遠征は行われましたが、海上貿易のs主導権は、外国人に任せていたため、東南アジアの国々の海港は利益を得ることができました。

15世紀初頭から明の時代、鄭和は海上遠征を数回行い、その後の華僑の崇拝の対象となっていますが、それと、その後の欧州の進出までは、東南アジア各国は富強を誇っていました。

おわりに

この論稿をまとめることで、筆者はインダス文明は、メソポタミア文明の支脈であり、インド文化の下にあったチャンパ王国は、17世紀末ベトナムに滅ぼされたことを学びました。

それにより、ベトナム戦争中、NHKで南ベトナム現地の歌として放送されていたのを、真実だと思い込んでいたことが、事実ではないことを知りました。

♪ 中国の支配下に千年、フランスの支配下に百年、そして二十年の内戦~ ♪

現代起こっている紛争は、根が深いものだというのが、感想です。

(image by 筆者)

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