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高校「世界史B」の「諸地域世界の統合と変容:ヨーロッパの拡大と大西洋世界(16世紀〜18世紀)」

欧州がアジア諸国に対し優位に立ち始めた時代を、世界史Bの試験に出そうな人物中心にまとめて見ました。後半には、イギリス、ドイツ、フランスの国家の成り立ちの差異を入れました。

その差異とは、産業革命直前の初期資本主義の発達の程度を違いを意味するようにも見えるので、興味のある方は、その辺を集中して勉強しても受験に役立ちます。

大航海時代

大航海時代の概要

ルネサンスは、科学的実証が求められた時代で、大航海時代もルネサンスの延長上にある、とする考え方もあります。

古代ギリとシアの歴史家ヘロドトスは、前10世紀のフェニキア人によるアフリカ周航を記していますし、9世紀には、北米大陸に達したノルマン人もいました。

しかし、これらは一般的な商業的航路とはならず、ましてその航路から植民地などは作られませんでした。

大航海時代には、自分がアメリカ大陸を発見したと言い張ったアメリゴ・ベスプッチでさえ、天体観測により、上陸したベネズエラの地点とドイツのニュルンベルクの時差が5時間半である、と正確に言い当てました。

現代の宇宙飛行士は、国家的あるいは国際的事業として、宇宙開発を行っていますが、バスコ・ダ・ガマ(1469~1524)も、同じように国家的事業として、インド航路を開発しました。

なぜ大航海時代が起こったか

実際なぜ大航海が必要だったかというと、土地の痩せた欧州では、獣肉や酪製品を常食にしていましたが、冬の間は家畜の餌がないので、全部屠殺し塩漬けにします。その臭いはひどいので、胡椒が必要になりました。

胡椒の他にも、香水や薬用の香料の需要があり、インドやモルッカ諸島では、おそろしく低価格だったものが、アラビアを通した輸送により大変高価なものとなり、イタリアの商人は大きな利益を得ていました。

活躍した人々

ポルトガルのエンリケ航海王(1394~1460)は、新航路を開拓して香料を得るため、外洋の航海に耐える大型帆船を作りだし、ディアス(1450~1500)は、喜望峰まで、たどりついています。

バスコ・ダ・ガマは、その後を継いだ者です。

一方、コロンブス(1446頃~1506)、マゼラン(1480頃~1521)は、何かに憑かれたような開拓者の悲劇を持っていました。特にコロンブスは、ネットのWikiなどを読んで見ると、天才特有の狂気を感じることができます。

1492年  コロンブス 新大陸上陸

1498年 バスコ・ダ・ガマ インド航路の開発

1519年 マゼラン 世界一周の途につく

各国の動き

インド航路の開発は、ポルトガルの香料貿易の独占を促し、イタリアのルネサンス文化は退潮に向かいます。

大航海時代は同時にスペイン、ポルトガルの植民地獲得の時代でもありました。

新大陸に関して言えば、その獲得は武力を伴うものであり、コルテスは1519年、メキシコ南部にあったアステカ帝国に攻め入り、莫大な黄金を奪い取りました。

その情報を得たピサロは、1531年にアンデス山脈の高原にあるインカ帝国のクスコを攻め、金銀の器具をすべてのべ棒にして本国に送りました。

16世紀後半にはスペインは、原住民の労働者を只同然で使用して銀山を採掘し、それは世界の産出量の70~80%にもなったので、大変な利益となりました。

その強制労働により原住民の人口が地域によっては二分の一、四分の一に減ってしまったので、アフリカからの奴隷を利用しましたが、これも地域、場所によっては、奴隷の平均寿命が6~7年でした。

アフリカに勢力を移植していたポルトガルにとって、奴隷貿易は重要な収入源でした。

新大陸のイベリヤによる独占は、はぼ100年間続きました。本国からは、毛織物、絹織物、金物、農産物が送られ、植民地からは金と銀が送られました。

スペイン領南アメリカにおける毛織物の販路は膨大であったので、母国スペインの毛織物工業の発展は、著しいものでした。

新大陸の需要は、スペインだけでは間に合わず、南ネーデルランド産やイギリス産の毛織物が、セビリア商人の手を通じて、新大陸へ輸出されました。

その結果、欧州の銀の主生産地であった南ドイツの銀鉱山は大きな打撃を受け、そを独占していたフッッガー ー家は没落し、北イタリアで毛織物を扱っていた大商業資本も衰退してゆきました。

イベリヤに流れた南米の銀は、東インドへ輸出され、香料の輸出に当てられました。

大航海時代のおさえるべきポイント

コロンブス

スペインのイサベラ女王との契約で、コロンブスの西航はスペインの事業として行われましたが、コロンブスは新大陸をアジアと誤認したため、香料も黄金もわずかしか手に入りませんでした。

そのため、国王から疑惑を受け一時は逮捕され、罪に問われることはなかったものの、約束の発見された土地の副王兼総督という地位も得られず、死亡しました。

マゼラン

1519年9月、マゼランは、モルッカ諸島が香料の宝庫であるとの情報から、西回りでそこを目指しました。

フィリピン諸島まで来た時、船に乗せていた奴隷から、モルッカ諸島はここから遠くないと告げられましたが、土人との戦いで自身は殺されました。

残った一行は、モルッカ諸島に寄り、1522年9月、セビリアの港に帰り着きました。五隻の船隊と237人の船員は、一隻、18人に減っていましたが、それに満載されていた香料だけで、投資を上回る利益をあげました。

ルネサンス

イタリアのルネサンス

ルネサンスの時代は、ダンテ神曲を書き始めた(1304年)ことから始まり、マキャベリ君主論で総決算となります。、マキャベリの没三年後、ドイツ・スペイン連合軍にフィレンツェは征服され、ルネサンス文化は崩壊します(1530年)。

ルネサンスは、文芸復興と訳されることも多く、世紀の天才たちの仕事が主題なので、気が重くなる人も多いと思いますが、ギリシア・ローマの古典主義への回帰と考えれば、そこに見えてくるものがあります。

それは、ギリシアの証明・論理の文化とローマの実証・実務の文化ではないか、と考えられます。

欧州の中世の時代には、アラビアやインドの方がはるかに先進地域でした。インドでは、すでに、万有引力の法則が発見されており、地球の周囲の長さもほぼ正確に測定されるほど、物理学・数学が発達していました。

しかし、インドの数学は、証明を与えない法則の集合に過ぎず、ただ直観をしいるばかりである、という人もいます。

ガリレオ・ガリレイがその地動説の計算の不備を教会につかれ、説を撤回したことに、欧州人の思考法の一端を見るような気がします。

色々な分野で天才が現れたので、名前と作品をあげておきます。

ボッカチオ「デカメロン」、レオナルド・ダ・ウ”ィンチ(モナ・リザ)、ミケランジェロ(モーセ、ダビデ)、ラファエロ(カーネーションの聖母)

他のヨーロッパ諸国のルネサンス

アルプス以北の国々では、イタリアほどギリシア・ローマ文化に親近感を持っていないので、ルネサンスという形でなく、宗教改革という方法になりました。

しかし、ルネサンス期の偉人として著名な人もおりますので、国別にあげてみます。

  • フランス:フランソア・ヴィヨン・・・詩人、ラブレー(ガルガンチュア物語)、モンテーニュ(随想録)
  • オランダ:エラスムス(痴愚神礼讃)
  • イギリス:トマス・モア(ユートピア)
  • ポーランド:コペルニクス・・・地動説

おさえるべきポイント

マキャベリの君主論

政治をキリスト教的道徳から切り離して、結果責任を政治家に求めた書。フィレンツェをアルプス以北に生成する絶対主義国家の攻勢から救うために書かれたものです。

とはいうものの、通俗的マキャベリズムについて言えば、インドの政治などと比較した場合「マキャベリなど無邪気なものです」(マックス・ウェーバー)。

やはり、マキャベリについても、その政治学の始祖たる所以は、その欧州的論理性だと考えられます。

しかし、その理論は「国家確保」の理論であり、厳密な法学的正当性の考察が欠けている、という批判(ジャン・ボダン)があります。

宗教改革

宗教改革の概要

ドイツで始まった宗教改革は、農民戦争(1524~25)を誘発しましたが、封建諸侯によって弾圧され、新教勢力が国をまとめあげることはありませんでした。イギリスやスイスでは、新教の側が政権を獲得する事態が起こっています。

宗教改革の最終的結果として、イギリスでは、1649年新教徒が政権奪取に成功したので、清教徒革命と呼ばれていますけれど、フランスでは1648年には失敗しているので、フロンドの乱と呼ばれます。

ドイツ

ルター(1483~1546)

宗教と言うと難しい感じがしますけれど、欧州の中世においては、すべての人にとってキリスト教が生活の規範であり、特にドイツにおいては、統一国家に向かう流れがなかった分、ローマ法王の力は強大でした。

ルターは膨大な著作を著し、異端とされたウィクリフや火刑にされたフスの主張を多く取り入れましたが、最初のうちは当時のしきたりに則って、「95ケ条」の学問的な提起をラテン語でしたにすぎませんでした。

しかし、その内容に免罪符の販売批判が入っていたため、教会に不満を持っていた民衆の注目を集めたので、ドイツ帝国議会はルターを召喚し、「帝国追放」の刑を宣告しました。

ルターは、ザクセン選帝侯にかくまわれ、そこで聖書のドイツ語翻訳を行い、そこではルターが方言の中から最も適切なものを選び出して綴ったので、標準語となってゆきました。

ルターは政治的、社会的には保守的な人物であったので、1524年にルターの著作に影響を受けた人々による農民戦争が起こった時、ルターは自身が農民出身にもかかわらず、諸侯、領主に弾圧を勧めました。

1555年、アウブスブルグの宗教和議で、諸侯と帝国都市当局に宗派の選択権が与えられました。個人に新・旧の教派の選択の自由を認めたものではありません。

スイス

カルヴァン(1509~1564)

カルヴァンは、フランス出身ですが、スイスのジュネーブの彼を支持する人々の懇願によって、教会憲章を作成し長老会を組織してジュネーブ市民の宗教生活や日常生活を監督させました。

カルヴァン派は、西欧の先進地域、ネーデルランド、フランス、イギリスに広まり、オランダ独立戦争、イギリスの清教徒革命で中核となりました。

ルターとの違いは、民主的原理により教会組織が運営されることと、抵抗権を認めていることです。

ルターは、武力的抵抗を一切認めませんでしたが、カルウ”ァンは、長い忍耐と抗議の末ならば、国民の指導層に限り政府に反抗してもよい、と述べています。

イギリス

クロムウェル(1599~1658)

イギリスの教会は、チューダー王朝のヘンリー8世の離婚問題から1534年ローマ教会から独立し、イギリス国教会を誕生させました。

1588年にはイギリスはスペインの無敵艦隊に勝利し、そのエリザベス一世時代には、スペインとの対抗上、新教の側に立っていました。エリザベス一世時代にイギリスの絶対王制が確立しました。

1603年にチューダー朝のジェームズ一世が即位すると、王権神授説をとり国教会の教区組織を地方行政の官僚組織にしてゆきました。この時代、メイフラワー号で新大陸へ逃れたピューリタンの人々がいます。

エリザベス女王時代から国の財政は火の車でしたので、1625年に即位したチャールズ一世は議会の同意を得ずに課税を続け、これに対し議会は権利請願を国王に提出しました。

国王は、議会を解散したので国は内乱状態となり、ジェントリ出身のクロムウェルは、ピューリタリズムに則り議会軍を組織し、さらに戦況が芳しくなかったので、議員の指揮官を追放し、自分は政治に専念しようとしました。

しかし回りの状況はそれを許さず、クロムウェルは戦場を駆け巡り、彼の騎兵隊が中心となって国王軍を破ったので、1646年、国王チャールズ一世は投降し、1648年に処刑されました。

フランス

ユグノー戦争(1562~98)

フランスでは、1540年代以降カルヴァン派が増大し、彼らはユグノーと呼ばれ、次第に貴族の間にも広まましたが、1562年のウ”ァッシーの虐殺、1572年の聖バーソロミューの虐殺と戦争状態は続きました。

ブルボン家のアンリ四世により、ナントの勅令(1598年)が発布され、新教派に信教の自由が認められ、戦争は終了しました。

フロンドの乱(1648~53)

ルイ十三世の側近であり、事実上の宰相であったリシュリーの後を継ぎ、宰相となったマザランは、財政難を解決するため、勅令を出しましたが、それに対し旧貴族派、高等法院派、市民は反発し内乱状態になりました。

しかし、改革派は団結できず、若い国王(ルイ十四世)はパリに戻り、フロンドの残党も片づけられ、乱は終了しました。

改革派の中に、カトリックで親スペインの人達がいて、ピューリタンのイギリスと連携することを躊躇したことが、国王側を勝利に導きました。

30年戦争(1618~48)

アウブスブルグの宗教和議が破綻したことによる30年戦争は、ドイツ国内の宗教紛争というよりも、国際紛争という形になってきました。旧教国であったフランスは、新教側を助けました。

これは、ブルボン家がスペインとオーストリアのハプスブルグ家に対抗するためでした。フランス軍は、最終的には両ハプスブルグ軍に勝利を収め、フランスはウエストファリア条約では、ライン左岸の土地を獲得しました。

宗教改革のおさえるべきポイント

農民戦争

ドイツの農民は、日本の百姓一揆とは違い、領邦諸侯により割り当てられた人数を軍に召集される定めがあるので、武器は自前であり軍隊経験を持つ者もいました。

農民戦争に合流した都市もあったので、一揆軍は、小銃や大砲も持っていました。

ウエストファリア条約(1648年)

30年戦争の終結により、新教と旧教の和解が成立し、この条約が国際法の端緒になりました。現代の論者の中には、今の時代はウェストファリア体制が崩れつつある革命体系の時代だ、と語る人もいます。

ライン左岸の土地

アルザス、ロレーヌ地方です。この時代からこの地はフランス、ドイツの領土争いの中心となり、独仏間の戦争に宗教的色彩が薄れてきます。

20世紀になると、極右国家主義者のヒトラーは、「ブルボン王朝であれ、ナポレオンの革命軍であれ、フランスの共和国政府であれ、ドイツの敵は、常にフランスであった。」と述べています。

植民地戦争と世界貿易

植民地戦争と世界貿易の概要

新大陸へのイギリス、フランスの進出

1555年フランスもフロリダに植民地を作ろうとしたのですが、遠征隊の生き残り300名は全員スペイン人に殺害され、砦も破壊されました。

しかし、1607年にはイギリスはヴァージニアの植民に成功し、1608年にはフランスがケベックの植民に成功しています。

ミュンスター条約

スペインとオランダとの間で、東インド航路をめぐる戦争がありましたが、1648年のウエストファリア条約の中で、戦争の講和としてのミュンスター条約として、オランダは東西両インドに領土を持つことが認められました。

また、すでに1581年にスペインからの独立を宣言していたオランダは、この条約で独立が国際的にも承認されました。さらに、新大陸でのイベリヤ勢の独占も打破されました。

世界貿易

オランダの繁栄

1602年には、オランダには東インド会社を設立し、アムステルダムは17世紀中葉には、欧州第一の経済都市になっていますが、その繁栄は、国際中継貿易を軸とするもので、国内の産業も加工貿易工業が主でした。

そのため、貿易の盛衰は国の運命に直結していました。

イギリスの台頭

スペイン、イギリスとも。オランダと異なり、豊富は羊毛産出国でしたが、スペインの方は、毛織物工業の競争でオランダに敗れました。

毛織物工業に関するイギリスのオランダに対する勝利は、マニファクチュア(工場制度の先駆)や初期資本主義(産業資本、商業資本、金融経営、地主)があったことによる、という見方が有力です。

欧州大陸における戦争と植民地戦争

スペイン継承戦争(1701~1714)

フランスのルイ十四世は、ブルボン家からのスペイン王位継承により、フランスとスペインの合同を図り、スペインの貿易特権をフランスの貿易会社に譲らせたりしたので、欧州諸国は一斉に反発しました。

チャーチルの祖先マルパラ公は、ルイ十四世の軍を破っています。1713年のユトレヒト条約では、合同しないことを条件に、ルイの孫のスペイン王即位が認められました。

北米では、それまでフランスが毛皮貿易のために勢力を拡大していましたけれど、この戦争の一部であるアン女王戦争(1702~1718)で、イギリスは、ニューファンドランド、アカディア、ハドソン湾を獲得しました。

オーストリア継承戦争(1740~1748)

オ-ストリアで、ハプスブルグ家のマリア・テレジアが皇帝に就くと、プロイセン国王フリードリヒは、宣戦布告もなく工業地帯のシュレジェンに侵入し、七年戦争が始まりました。

オーストリア側にはイギリスがつき、プロイセン側にはフランスやバイエルンがつき戦争は全欧州に広まりましたが、プロシアは、シュレジェン確保をオーストリアからとりつけると戦争から離脱しました。

カナダとインドでこの戦争の一部として、英仏間の植民地戦争の局地戦があり、インドではフランス側がやや有利な立場になりました(第一次カーナティック戦争)。

七年戦争(1756~1763)

オーストリア継承戦争での敗戦の痛手から立ち直りつつあったオーストリアは、フランス、ロシアと同盟を結びました。それに対抗するため、プロイセンは、ザクセンへ奇襲攻撃を加え、七年戦争が始まりました。

墺・露・仏の圧倒的な軍勢に加え、スェーデンもプロイセンの敵になり、プロイセンにはイギリスからは軍資金の援助があっただけなので、フリードリヒの運命は風前の灯となりました。

ところが、ロシアが突然、戦線を離脱したので、1763年の平和条約によって、プロイセンは欧州の強国の地位を得ました。

北米では、1763年イギリスとフランスの間に、インディアンも巻き込んだフレンチ・インディアン戦争が起こりました。これは、七年戦争の一部とされています。

その講和では、イギリスはカナダとミシッシピ以東の土地をフランスから獲得しました。

イギリスはインドでも、七年戦争の一環として、ベンガルにおける親仏的太守の軍参謀を買収することで、1657年プラッシーの戦いにより少数の兵で太守の軍を破り、太守を処刑し、インド進出の独占権を得ました。

主権国家の成立

フランス

フランスでは、イギリスと異なり、新教徒の革命が失敗(フロンドの乱)したため、絶対王制は逆に強化され、ルイ十四世(在位1643~1715)が親政を行った時代には絶頂を迎えます。

1650年には、当時少年であったルイ十四世は、フロンドの乱のため1650年から地方遍歴に出ており、おじのチャールズ二世がイギリスで断頭台にかけられたことで、そうならないよう絶対権力を欲しました。

その象徴が、ベルサイユ宮殿です。

1965年には、財務総監としてコルベールが就任し、代表的重商主義であるコルベルティズム(コルベール主義)の経済政策が行われました。

国家の統制によりギルドの手工業製品の質を高め、イギリスやオランダをまね東・西インド会社を設立し、商船隊を増強し、徹底した保護貿易主義をとり、毛織物などの関税を一挙に二倍にしました。

このことは、全欧州をフランスが敵にまわして戦う大きな要因のひとつとなっています。

イギリス

イギリスでは、クロムウェルの死後、王制復古が始まり絶対王制に戻りかけましたけれども、王に忠誠なチャーチルの祖先のマルパラ公でさえ、オレンジ公ウィリアムに寝返ったので、名誉革命(1688年)が成立しました。

この結果、イギリスでは、絶対王制と別れを告げ、立憲君主制による議会民主制の国家となります。

プロイセン

プロイセンでは、フリ-ドリヒ二世(在位1740~86)が、即位の年に「反マキャベリ論」を出版し、その中にある君主は人民の「第一の下僕である」という言葉から、啓蒙専制君主とみなされています。

しかし、実態は、ユンカー(地方の領主)には免税の特権を与えたままで、税負担は農民と市民に多くかかっており、身分秩序を維持するための見せかけという見方もあります。

おさえるべきポイント

オレンジ公ウィリアム

オランダ総督とイギリス王女の間に産まれ、ルイ十四世の軍を破った経験を持つ英雄です。

おわりに

世界史Bは、語学、地理、政治経済にも関係があるので、物事を広く浅く勉強したいタイプの人には、受験に最適です。

ミュンスター条約は、大学受験には出題されることはないと思いますが、歴史の流れを理解する上で便利なので、入れてみました。

(image by 筆者)

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