生活の知恵があつまる情報サイト

nanapi

  1.  
  2.  
  3.  
  4.  
  5.  
  6.  
  7. 作家・小林エリカがいま“放射能”をテーマに執筆した理由ーー目に見えないもの、記録に残らないものの跡をたどる
趣味・娯楽のハウツー

作家・小林エリカがいま“放射能”をテーマに執筆した理由ーー目に見えないもの、記録に残らないものの跡をたどる

nanapiトピックス

マンガ家、作家以外にも幅広く創作活動をする小林エリカ。彼女の初の長編小説『マダム・キュリーと朝食を』は、放射能という科学史についてのトリビアルとも言える知識を駆使しつつ、一匹の猫と少女を主人公に、未知を求めずにはいられない人間の性、憧れ、記憶などが交錯する世界を描き、三島賞、芥川賞候補にもなった。

彼女が「光」をテーマにインスタレーション作品を展示する展覧会開催中のギャラリー「gallery360°」で作品への思いを訊いた。

作家・小林エリカインタビュー

痕跡はあるが、目に見えないものの魅力

小説『マダム・キュリーと朝食を』、そして、コミック『光の子ども』は、小林自身の放射能への興味が作品の大きなテーマになっている。こう書くと、2011年に起きた東日本大震災とそれによる福島の原発事故がきっかけになった作品と思う人がいるかも知れない。

しかし、科学や原子力に対する小林エリカの興味は、それよりはるかに以前からのものだ。彼女のデビュー作からして、『爆弾娘の憂鬱 恋の放射能』(注)というコミック(元々はアニメーションとして作られた)である。

(注)これは主人公の女の子が核爆弾(!)で、彼女が恋をすると周囲の人が命を落とすという破天荒な設定だった。

『光の子ども』では、X線や放射線の発見などから始まる科学の歴史を2011年に生まれ「光」と名づけられた子どもと一緒に追いかけつつ、それが現在の私たちの生活につながっていることを示唆する。そして、『マダム・キュリーと朝食を』では、18世紀の料理レシピ、マリー・キュリー(キュリー夫人)やトーマス・エジソンのエピソードなどを散りばめながら、主人公に現在と過去を自在に行き来させるという内容だ。

そこには記憶、史実、現在が渾然一体となった世界が現れる。

「作品を書いてみて気付いたのですが、私は確実に何かあったであろうものの痕跡に興味があるんだと思います。例えば“放射能”であったり“時間”であったり。今回、『マダム・キュリーと朝食を』を書くにあたって、キュリー夫人の実験ノートを探していたらそれが一冊だけ東京の図書館に貴重図書としてあることが分かって、それを見に行きました。その表紙をガイガーカウンターで測ると、いまだに数値が微かに上がるんです。それはラジウムやポロニウムなどの放射性物質を扱っていたキュリー夫人が触れた部分なのだと教えられました。それはもうずっと昔のノートだし、キュリー夫人は亡くなってこの世にはもういないというのに、いまだにその数値だけは上がるということにすごく興味を持ちました」と小林。

私たちの多くは、目に見えないものを忘れがちだが、それは確かに存在し、今の私たちにつながっている。キュリー夫人のノートにも彼女が生きてきた痕跡が(放射能という形で)残っていたのである。

キュリー夫人に関心を抱いた理由は他にもある。

一つは実父の日記である。小林が幼い頃から愛読した『アンネの日記』の著者アンネ・フランクは、小林の父と同じ年の生まれだ。そこで小林はアンネの日記と父の若き頃の日記を手に、アンネ・フランクの人生を辿るようにドイツ・ポーランド・オランダを旅しながら小林自身も日記を記すというノンフィクション『親愛なるキティたちへ』を書いた。

「10歳のときに年上のアンネ・フランクの日記を読んだことが私にとってすごく大きくて、『いつの日か、ジャーナリストか作家になれるでしょうか。』『なぜなら、書くことによって、新たにすべてを把握しなおすことができるからです。わたしの想念、わたしの理想、わたしの夢、ことごとくを』とアンネは日記に書いているのですが、私はそれをまるで自分のことのように真に受けてずっと私自身も作家になりたいと願っていました。大人になってから偶然に父が16歳から17歳の、ちょうど日本が戦中・戦後のときの日記を見つけてそれを読んで、父がアンネ・フランクと同じ年の生まれだということに気づいたんです。父の日記の17歳の誕生日の日に『キュリー夫人伝を読了』という一文があり、キュリー夫人のことはそれからずっと気にかかっていました。そしてそのとき父は80歳だったのですが、ということはアンネ・フランクも生きていればその歳を迎えられる可能性があったんだということがすごく衝撃で、自分の中では永遠に少女のアンネ・フランクが実はおばさん、おばあさんになる可能性があった。私はおばあさんになったアンネの言葉も読みたかったとすごく思いました。そういうことの一つひとつが私の作家活動にすごく強く影響しています」

また小林は2007年から2008年、アジアン・カルチュアル・カウンシル、ロックフェラー財団の招聘でニューヨークに滞在した。

「このとき、キュリー夫人の次女であり、母の伝記「キュリー夫人伝」の作者でもあるエーヴ・キュリーさんがアッパー・イーストサイドで102歳で亡くなったことを知りました。私がニューヨークにいたとき、しょっちゅう通っていた場所の近くに、キュリー夫人のお嬢さんが生きて暮らしていたことに驚きを感じました」

歴史が今、ここにつながっていることを実感すると同時に、個人的な偶然(それはシンクロニシティと呼ぶ方がふさわしいかも知れない)が小林の執筆を後押しした。

小林が言う「痕跡はあっても目に見えないもの」は、文字に残されなかった歴史でもある。

「私は人間の、光を求める欲望にも興味があって、電気の歴史を書きたいと思いました。それで調べて知ったのが、トーマス・エジソンが野良猫を一匹25セントで買い取り、電流で殺す実験に使っていたこと。猫だけでなく、犬や象なども実験として公開処刑されていました。トプシーという名の象はその電気処刑映像も残っていますが、猫たちは名前も、何匹殺されたのかも正確には書き残されていませんでした。一方、同じ頃にマジソン・スクエアでアメリカ初の『ワールド・キャット・フェア』が行なわれていて、そのコンペティションで優勝した猫の賞金は25ドルだったと言われています。かたや25セントで殺されていく命とかたや25ドルの命があって、優勝した猫は名前も残っていますが25セントで実験台にされた猫は名前さえ残らなかった。命ってなんだろう、命の値段ってなんだろう。記録には残らなくても、そこにありえたかもしれない一つの命のことを私はいま文章にしたいなと思うんです。それは同時に、いまこの瞬間に生きている一人ひとりのことでもあるんです。人の人生が全部書き記されるわけじゃないし、全員が歴史書に記録される訳じゃないけど、それぞれの一瞬はすごく大事。私は書かれることはないかもしれないけど、人生の大切な一瞬みたいなものを書きたいなと思っています」

小林は記録に残されない事実、声、感情をすくいあげようとする。

「わずかな痕跡でもわたしはそれを忘れたくない。だから人は記念館やモニュメントを作るのでしょう。私がマンガや小説を書くのもそれに似ている気がします」

美しい謎に魅惑されて、人は歩み続ける

科学や技術が諸刃の剣であることは長らく言われてきた。科学も技術もそれ自体は価値中立である。ダイナマイト、航空機、プラスチック、そして原子力——科学技術は人類に多大な恩恵をもたらすとともに、災厄ももたらしてきた。

小林の作品を読めば、科学技術の特性と関係なく、人は未来に何が待っているかを知らないまま(いや、知らないからこそ)、謎に魅惑されて突き進む業のようなものがあると思い知らされる。

それは、後から見れば不幸をもたらすとわかるのに、その時点では夢中になってしまう恋にも似ている。小林の作品にどこか諦観のようなものを感じるのはそのためかも知れない。

キュリー夫人やエジソンが生きた19世紀の終わりから20世紀にかけては、現代文明につながる数々の発明発見があった時代である。現在の私たちは当時の人々の感性を知るべくもないが、例えば電気エネルギーがまだなく、夜の闇は人々にとって恐怖であり、光を希求する気持ちが今よりはるかに強かったのは想像に難くない。

「電気を手に入れ夜も明るい遊園地などが登場したとき、当時の人々には私たちとは段違いに大きな喜びがあったはず。また電気は最初、ガスのように床にたまるんじゃないかと思われていたこともあったそう。そういう時代の感性や心情を、今の私たちの価値基準や思想で、“良い””悪い”とした時にこぼれ落ちてしまうようなことを、できるだけ表現したいと思っています」

放射線、電話、電気——小林は、この時代は特に目に見えないものに対する憧れが非常に強まった時代だと推測する。

「キュリー夫妻はソルボンヌ大学の友人に誘われ、降霊会にも出ています。いまの私からすればそんなこと!と思うわけですが、当時は、目に見えないもの、放射能も電気も霊も魔術もみんないっしょくたに境目なく謎の現象だったのだという事実に私ははじめて気づきました」

さらに過去に遡れば、科学はさらに魔術に近づく。アイザック・ニュートンは錬金術師の、ヨハネス・ケプラーは占星術師の側面を持っていた。

キュリー夫人は、放射能(放射線を出す能力)という事実を明らかにしたが、それがなぜ起こるのか、当時はまだわからなかった。

「物質が放射線を出しながら崩壊し、違う物質に変化していくことは未知のことでした。原子核が分裂することもまだ知られていません。その不思議な現象は魔術的にさえ思えたことでしょう。キュリー夫人たちはそれを手探りで一つひとつ解明していったんです。いま私たちは、核は分裂するし、放射能はどういうものかを知っているけど、そこの境目すら分からない中から何かを探り出して得ていくというか。書きながらそういう感覚をちょっと忘れていたというか、そんな風に過去を生きた人たちの気持ちを想像したことがなかったことに気づきました。同時に当時を生きたキュリー夫人もまた、こんな未来がやってくるとは想像できなかったでしょうけれど」

キュリー夫人による放射能の発見は、今日の原子爆弾や原子力発電へもつながっていく。しかし、キュリー夫人はそのことを知る由もない。ただ目の前の美しい謎の光の理由を追い求め続けたのだ。

現在の私たちは、シミュレーション技術や予測技術の発展した時代に生きている。しかしそれでも今日、私たちが選択した結果が10年後、20年後、どんな結果をもたらすかを知ることはできない。その意味では私たちもキュリー夫人が生きた時代の人々と同じなのだ。

時空を越えて「今、この場所」を感じる

文明史的な視点があるせいか、放射能や戦争というテーマが関係しているせいか、小林を「社会派」作家と認識している人も多い。

「私には社会派なんてつもりはまったくなくて、むしろ私小説に近いと思っています。自分の身の回り半径3mの世界を書いているんです。けれども、身の回りの世界によく目を凝らしてゆくと、過去の時間や遠くや近くの事象にも未来へもつながっていく。いま私がなぜここにいて、こういう状態の現実を、いまを生きているんだろう、って考えているだけです。すると自然にキュリー夫人やエジソンなどにつながってゆく。キュリー夫人が取り出したラジウムの半減期は1601年ぐらいと言われています。彼女がそのラジウムを手にしたのは1902年だから、半減期を迎える頃というのは西暦3503年のことになるんですよね。西暦3503年って一世代を30年としても、自分の53代後の子孫になるんです。そんな未来を生きる子どもたちがキュリー夫人の名前を忘れてしまっても、ラジウムの痕跡だけはくっきりと残っている。それはつまり、そんな未来にまで続く今がここにあり、わたしはそんな今を生きているということでもあるんです」

彼女は緻密に事実を調べ、ジャーナリストのように現地に足を運び執筆のための取材をする一方で、あくまで新鮮な感性で見えないつながりを捉え、今この場所にいる自分を描く。

「私が生きているいまこの瞬間はもちろん、私自身が歴史にのこらないことの方が可能性としては大きくて、でもそれでも私はいまここに生きている。忘れられてしまうかもしれない一瞬一瞬をすごく大事だと思っているから、少なくともそれを私は書きたいと思っています」

以下、作品冒頭部分の一部を引用

『マダム・キュリーと朝食を』 

私たちがスフレの中心温度より、
惑星や太陽の中心温度のほうをよく知っているというのは奇妙なことである。
――ニコラ・クルティ

母たちが街を乗っ取ることに成功したその年に、私はこの世に生まれました。ある日、人間たちは遂に、私たちにキッチンを、寝室を、トイレを、風呂場を、コンビニエンスストアを、レストランを、公園を、学校を、病院を、何もかもを明け渡したのです。それは記念すべき日でした。母たちは勝利の声をあげて高らかに鳴きました。勿論、それまでだって母たちは猫らしく人間たちの家を乗っ取り暮らしておりましたが、いつか街をまるごと全部自分たちの手に入れることを虎視眈々――そうです、実に我らが同胞虎のように!――と狙っていたのですから。

 母たちの乗っ取った街は、それは素晴らしいものでした。小さな幾つもの家々、フルールの実る畑、牛や馬や豚の牧場、ショッピングプラザなんかもありました。街では、私たちは好きな時に好きなだけ食事をして、好きな場所で眠ることができました。レストランの冷蔵庫の中に眠っていた、たっぷりしたフォアグラや、キャビアをたらふく食べました。私たちは空き家に忍び込んで探検をしたり、散らかったままの洋服やタオルの上で飛び跳ねて遊びました。放たれたダチョウやイノシシ、カラスなんかには気をつけなくてはなりませんでしたが、私たちは自由でした。母たちはそこを、母たちの、私たちの街として〈マタタビの街〉という意味を持つ名で呼び習わしました。そうです。あの街は、それほどまでに夢のような場所だったのです。もう、猫だからといって人間たちから耳を引っ張られたり、怒鳴られたり、嫌という程撫で回されたり、挙げ句の果てには去勢されるだなんてこともないのです。母たちはシロツメクサが一面に咲く野原や瓦礫の中でフリーセックスを謳歌し――ちょうど春がはじまったばかりでしたし――、そうして生まれたのが私というわけです。

 可哀想な犬や牛はつながれたままおんおん鳴いて、みるみる痩せ衰えて死んでゆきました。身体には蛆がわき蠅がたかり哀れで気の毒な気がしましたが、それは人間に隷属していた報いなのだ、と心では囁きました。私たちは私たちの街を手に入れたという喜びに満たされていましたし、そんな惨めったらしいことはすぐにきれいさっぱりと忘れてしまいました。

 私は母のおっぱいからでるミルクを思う存分に飲み、真っ白くてやわらかな体毛と甘い匂いに包まれながらすやすやと眠りました。まだ目の青い兄弟姉妹たちと喧嘩(けんか)をすることもありましたが、それもじゃれあっているうちのことです。眠りから覚めてゆっくりと目を開けると、アスファルトや土や空はいつも光り輝いて見えました。私の記憶の中にある〈マタタビの街〉はまさに天国そのものみたいなのです。

 皮肉にも、そこに暮らしていた私の母や仲間たちが本物の天国行きになったかもしれないなどということを聞かされたのは、ずっと後になってからのことです。

 今、私は東の都市に暮らし十年が過ぎました。ここには人間が大勢居ますが、それなりにうまくやっているつもりです。そもそも私たちはこの世に生まれるときから、人間が思うよりはるかによく人間のことを学び知っているのです。これは、長年人間と共にある私たちが、よりよい猫生活を手に入れるための常識であり、知恵でもあります。私はとりわけ人間たちの歴史や行動に詳しい方でしたので、人間の心を奪うことは、少しも難しくありませんでした。いまはマンションの幾つかの部屋を行き来し、屋根の上で日光浴する、快適な生活です。かの冒険の途中で片目の視力を失いはしましたが、私は持って生まれた魅力で人間たちの心を摑み、思い通りの暮らしをしています。いわゆる幸福な日々を過ごしているといっても過言ではないでしょう。

 しかし、私は母を、〈マタタビの街〉を、想ってひとりこっそり鳴いてしまうのです。

(取材・文:Nobi Oda、写真:岡田大輔、元記事:IGNITION日本版
※本インタビューは、2014年10月に行われたものです

編集部ピックアップ

編集部おすすめ期間限定のPRコンテンツ

もっと見る